コラム
▎人間とAIの境界線
AIと人間の境界は、まるで砂浜に描いた線のように、徐々に波にさらわれていく。デジタル空間における人格がAIか人間かを見分けることは、いずれほとんど不可能になるだろう。
SNSで絡んでいた相手が、実はAIだったなんてことに、もう誰も驚かなくなる。
すでに多くの領域でこの兆候は見られる。生成AIによって描かれた女性の画像、作られた音楽、書かれた文章。 どれもが「よくできていて」、どこまでがAIなのかを判別するのが困難になりつつある。
しかし、そこには微妙な、しかし決定的な違いが存在する。
▎AIタレント画像には「ほくろ」がない⁉
AIが生成する画像には、ある重要な要素が欠けている。結論から言えば、それは「ほくろ」だ。人間には必ずある。
なぜ「ほくろ」なのか?
AIが生成するデータは、統計的に確率の高い「平均像」を出力しているにすぎない。 だから、妥当な肌、左右対称な顔、バランスの取れたスタイルはつくりやすい。
でも、それって面白い? 感情移入できる?
人間というのは「ほくろ」「シミ」「シワ」「傷」といった欠点があるからこそ、
その人らしさが生まれる。これらの「不完全さ」こそが、
個性を感じさせる重要な要素なのではなかろうか。
これらは平均を取ると消えてしまう。
AIに「悪態をついてみろ」と指示してみても、
彼らは優等生。確かに言うとおりにするけれど、その悪態も真面目さゆえのもの。
結局「個性を再現する」という点では、いまだ人間には至らない。(いやそもそも別物か)
▎AIに「人間らしさ」をインストールする未来
現段階では、みんなAIの性能の向上にばかり注目している。しかし、ある程度の性能に達したら、人々は次に何を求めるだろう?
もちろん「個性」だ。
汎用的で平均的なAIでは、もう満足できなくなる。
私たちは、逆説的に「欠点」や「クセ」といった、
これまで人間の弱点とされてきたものをAIにインストールし始めるだろう。
たとえば、完璧に磨かれたAIタレントの顔に、あえて「ほくろ」をつけたり、
少し不揃いな歯並びで愛らしく見せたり、
口調に少しばかりの無愛想さを混ぜてみたり…。
そうして初めて、AIは「人間らしさ」を獲得する。
面白いことに、これまでは排除されてきた「劣等感」のようなものが、
逆にAIに価値を与えるという構図になるのだ。
結論は以下の通り。
AIが「完璧さ」や「正確さ」に近づいたら、次に価値を持つのは
「平均からの崩れ」によるリアリティなのかもしれない。
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